本記事は、「Experimentation Island 2025」で実施されたLindsay Juarez氏の基調講演の主なポイントをまとめたものです。彼女は、Irrational Labsによる「3Bフレームワーク」がプロダクト設計をどのように変革できるかを紹介しています。
リンゴをひとついかがですか?
「リンゴをひとついかがですか?」。なんの前提もなく、仮定としてこのように尋ねられると、およそ60%の人が「はい」と答えます。しかし、実際にリンゴを目の前にしたとき、人々はどのような行動を取るのでしょうか。そこには大きなギャップが生まれます。このギャップこそが研究すべきポイントであり、プロダクトデザイナーが行動科学から学ぶべき観点でもあります。

ロサンゼルスにある大手エンターテインメント企業が、従業員にもっと健康的な食生活を送ってもらいたいと考え、Irrational Labsに協力を依頼しました。
その企業の社員アンケートによると、従業員自身も健康的な食生活を望んでおり、「リンゴが好き」と回答していました。そこで会社は、社員が無料かつ自由にリンゴを食べられる環境を用意しました。しかし、リンゴはまったく手に取られることはありませんでした。なぜでしょうか。
リンゴはフライドポテトのすぐ隣に置かれていたのです。
人間は「言ったこと」を実行するとは限らない
このエピソードは人間の行動に関する、ある真実を明らかにしています。それは、「やりたい」と言うことと、実際に「やること」には大きな溝があるということです。人間が嘘つきだからではありません。意思決定の瞬間において、文脈や環境が非常に大きな影響力を持つからです。
これこそが行動経済学および行動デザインの本質といえます。ほとんどの人は極端な行動は取りません。常にリンゴを選ぶわけでも、常にフライドポテトを選ぶわけでもなく、多くの人はその中間に位置しており、その選択は環境に大きく左右されます。
問うべきは「どうすればより良い選択をさせられるか?」ではなく、「どうすれば自然により良い行動を取るような環境を設計できるか?」なのです。
そこで登場するのが、今回紹介する「3Bフレームワーク」。10年間におよぶ研究とテストから構築された、行動科学に基づいたプロダクトデザインのための実践的なアプローチです。
3Bフレームワーク ~より良い行動変容へのアプローチ~
10年間にわたって、行動科学をプロダクトデザインに応用してきた結果、私たちはアプローチを以下の3つのステップに集約しました。そして、各ステップを象徴する言葉である「Behaviors」「Barriers」「Benefits」の頭文字を取り、「3Bフレームワーク」と名付けています。
- 重要な行動を特定する(Identify Key Behaviors)
ユーザーにどのような行動を取ってほしいのかを、具体的かつ明確に定義する。
- 障壁を取り除く(Reduce Barriers)
ユーザーがその行動を簡単かつすぐに実行できるように設計する。
- ベネフィットを強調する(Amplify Benefits)
今すぐ行動を起こしたくなるような魅力的な理由を提供する。

以降では、このフレームワークがプロダクトデザインにどのような変革をもたらすのかを見ていきましょう。
【1】重要な行動を特定する(Identify Key Behaviors) ~あえて過剰なほど具体的に~
プロダクトを設計する際には、「ユーザーにもっとエンゲージしてほしい」「もっと健康になってほしい」といった抽象的な目標では不十分です。望ましい成果を実現するためには、ユーザーに取ってほしい行動を明確に定義しなければなりません。しかも、過剰なほど具体的に。それくらいでなければ、行動の定義として十分ではないのです。
映画監督のChristopher Nolan氏の例を挙げましょう。彼は「現場にもっとエネルギーがほしい」と考えました。ただしノーランは、漠然とスタッフや俳優に元気を出してもらおうとしたのではなく、「俳優とクルーが常に撮影の準備をしている」という具体的な行動にフォーカスしました。
そして出した答えが「撮影現場から椅子を排除する」ことでした。座るという選択肢がなければ、人は自然に立ち上がり、常に準備を整えるようになります。この方法を推奨するわけではありませんが、「特定の行動にフォーカスすること」が明確なソリューションにつながることを示す実例といえます。

明確かつ具体的に定義された重要な行動の例としては、以下のようなものが該当します。
- 新規のローン顧客が、金融機関への初回訪問時に普通預金口座を開設する
- 新しく承認されたカードの保有者が、初回ログイン時に二要素認証の設定を完了する
- リピート顧客が、チェックアウト前に少なくとも3点の商品をカートに追加する
行動変容で最も重要なのは、変えたい行動を特定して追跡することです。コンバージョンやリテンションといった数値成果を計測することに長けているマーケターはたくさんいます。我々は、さらに一歩踏み込んで、それらの成果を生み出す具体的な行動をトラッキングするのです。
【2】障壁を取り除く(Reduce Barriers) ~最も抵抗の少ない道を作る~
人間は最も抵抗や摩擦の少ない道を選びます。選択肢があるとき、私たちは最も簡単でオートマチックに済む行動を取ります。たとえ小さな抵抗であっても、それが人々の行動を左右する大きな要因となるのです。
「One Medical」の例を見てみましょう。彼らはこんな課題を抱えていました。「従業員にOne Medicalアプリへの無料アクセス(100ドル相当)を提供していたにもかかわらず、しかも従業員は予防医療への簡単なアクセスという明確なメリットがあるにもかかわらず、予約をまったく取っていなかった」というのです。
ユーザーの行動フローを調査したところ、いくつかの重大な障壁が明らかになりました
- 現在バイアス
One MedicalのWebサイトは、すぐにケアが必要な人の差し迫った病状にすらフォーカスできておらず、いま体調が悪くない人にとってはなおさら必要性を感じられなかった。
- 多すぎる選択肢
サインアップ後、20名以上の医療提供者が提示されたものの、それぞれの違いが明示されていなかった。
- 心理的な所有感の欠如
どの医療提供者が「自分向き」であるかという示唆が一切なかった。
これらの障壁が「先延ばし」の絶好の条件となっていました。このような意思決定がサポートされない状況において、最も簡単な選択肢は「何も選ばずに、これまで通りにしておくこと」だったのです。
私たちの解決策は一般的に想像されるようなものではありませんでした。ユーザー行動のフローに画面をひとつ追加し、「次のステップは医療提供者と会うことです」と明示したうえで、ひとつの推奨医療提供者と空き状況を提示したのです。この明確な誘導が、意思決定の心理的ハードルを下げ、選択をよりシンプルにしました。

障壁を減らすことは、当然ながらビジネスにとっても大きなメリットがあります。
- ショッピングプラットフォームでワンクリック購入機能を導入したところ、最初の3カ月で購入数が8.3%増加し、購入額は29.7%増加した。
- 「Uber」のようなライドシェアアプリは、タクシーよりも早くて安価な移動手段を提供するだけでなく、ドライバーの位置を追跡できる機能によって心理的な不安や迷いを大幅に軽減した。
- 「Netflix」の自動再生機能は、「これまでにテストされた中で圧倒的に最大の視聴時間の増加」をもたらした。

これらの例は、小さな障壁を取り除くだけで主要な指標に大きな影響を与え、大規模な行動変容を引き起こせることを示しています。
【3】ベネフィットを強調する(Amplify Benefits) ~今すぐ行動する理由をユーザーに与える~
Jerry Seinfeld氏は「現在バイアス」を的確に表現しています。彼は「夜の自分」が下した決断に「朝の自分」が後悔するという話をしました。夜の自分はテレビを見続けて夜更かしをし、そのツケを朝の自分が払うのです。
これは「現在バイアス」が働いている典型的な例です。人は将来の利益よりも目先の報酬を優先してしまう傾向があります。プロダクトを設計する際には、ユーザーが行動科学でいうところの「ホットな状態」、すなわち「忙しく」「気が散っており」「長期的な価値よりも即時的な満足を求める状態」にある可能性が高いことを前提に考えなければなりません。
ベネフィット・マトリクス ~将来 vs. 現在、具体的 vs. 抽象的~
ベネフィットは一般的に以下のふたつの軸からなるマトリクスで表現できます。
- 時間軸:将来 vs. 今
- 種類:抽象的 vs. 具体的

最も強力なベネフィットは右上の象限、すなわち「即時的・具体的・感情的な報酬」に位置します。例えば歯を磨くことを考えてみましょう。虫歯を予防するというのは将来的な抽象的・機能的ベネフィットですが、実際に毎日の歯磨きを動機づけているのは、スッキリとしたミントの爽快感という現在の感情的なベネフィットです。
これが、いわゆる「正しいことを、間違った理由で行う」状態です。行動変容を起こすには、重要だけれど遠い将来の利益よりも、すぐに得られる報酬を前面に出すことが有効な場合があるのです。
ベネフィットは即時かつ具体的に提示すること
新興のチャレンジャーバンクである「Chime」は、既存の銀行に対して優位に立つことができました。その理由は、「給与の振込を最長2日早く受け取れる」という明確で即時性のある価値提案を掲げたからです。「より良いバンキング」や「経済的な健全性」といった抽象的な表現ではなく、具体的で即効性のある価値を提示したのです。
同様に、Appleが初代iPodを発売した際も、「5GBのストレージ」といった技術仕様ではなく、「1,000曲をポケットに」という具体的な表現で訴求しました。
また「Duolingo」は、サインアップ前にレッスンを体験できるようにすることで、CVR(コンバージョン率)を20%も向上させました。アカウント作成という障壁を乗り越えるには、即座に価値を実感できる仕組みが効果的だと理解していたのです。
変えるべきは「人」ではなく「環境」
思い出してください。「夜の自分」は細かい注意書きを読むこともなければ、「朝の自分」にとって最善の選択をするとも限りません。だからこそ、ユーザーにもっと多くの情報や教育を与えて「行動を変えてもらおう」とするのは効果的ではありません。大切なのは、彼らがいる場所に寄り添うことです。
ユーザー自身を変えようとするのではなく、環境を変えるのです。意思決定が行われる文脈を変えるのです。これこそが「3Bフレームワーク」の本質であり、重要な行動の特定(Identify Key Behaviors)、障壁の除去(Reduce Barriers)、ベネフィットの強調(Amplify Benefits)を通じて実現されることです。
このアプローチが機能する理由は、人間が理想通りには行動しないという現実を前提としているからです。リンゴとフライドポテトが目の前にあれば、意志の力だけでは多くの場合、ポテトが勝ってしまいます。しかし、賢く設計されたプロダクトデザインなら、人の行動をより良い方向へと導くことができるはずです。