国内最大級の見逃し無料配信動画サービス「TVer」の成長をリードしてきた株式会社TVer 常務取締役COOの蜷川新治郎氏(取材当時。2025年6月30日退任、現・株式会社テレビ東京ホールディングス 執行役員コンテンツ統括補佐)へのインタビュー第2弾。
前回は、“テレビの再定義”を行い現在のTVerの方向性を決定した企画書や蜷川氏のキャリアについてうかがいましたが、後編となる本記事では、蜷川氏自身が「空振りした」と語るTVerアプリリニューアルの大失敗とそこからの再起、さらに8,500万ダウンロード(2025年4月時点)を突破し、いまや国民的アプリとなった同サービスのビジネススキームによって生み出された新たな世界から仕事論まで、縦横無尽に語っていただきました。(取材・執筆/河崎環)
⇒蜷川氏インタビュー「世の中の動きについていって、ギャップを埋めていく」――TVerの立役者、蜷川新治郎氏が語るテレビ放送の未来【前編】へ
放送業界当事者が忘れていた「マスであることの本当の価値」

2000年代からインターネット上に文字や映像のメディアが生まれ、巧みに衆目を集め、既存のマスコミを脅かす数字を上げて、世論への影響力を強めていった。2010年代、新聞やテレビなど、既存のマスコミは“オールドメディア”とすら揶揄され、ウェブはそれを乗り越えていこうとした。
だが蜷川氏はマスコミの側で、マスコミという巨人が動きを止めてしまわないようデジタルへトランスフォームするのを手助けしながら、「マスであり続け、コンテンツの質を問い続けられる環境は大切」とも感じていた。コンテンツの質が高いこと。くまなくリーチできること。それはマスであることの価値であり、本義でもある。ところが、マスである放送業界にそれが見えていたとは言い難い。
「ケーブルTVや衛星放送など、課金型の放送が主流の海外に比べて、日本は無料のテレビ放送が強すぎたんです。だから『無料でインターネットに流すなんて、視聴者がテレビを見なくなるじゃないか』とアレルギーがあった。人気番組のDVDを売ることにすら、『DVDを見ている時間は放送が見られなくなる』と一定の抵抗があった時代です」
2015年、豊かな日本社会では多くの人がiPhoneをはじめとするスマホを手にしていた。「このモバイルのエンタメ端末に積極的にコンテンツを出していかないなんてもったいない」。その思いとともに、TVerアプリへコンテンツを出してほしいとテレビ各局を説得し、ユーザーにとって魅力的なアプリ設計を模索した。
それはテレ東時代にも「ピラメキーノ!」のゲームアプリやParavi、テレ東ビジネスオンデマンド(現テレ東BIZ)で知見のあった蜷川氏にとっては得意分野、のはずだった。
アプリ設計の失敗で突然の苦境「抗わねば商売にならないけれど、抗いすぎた」

「2022年にアプリをリニューアルしたんですが、力の限り空振りしましたね……」。それまで自身のペースを崩さずに淡々と語り続けてきた蜷川氏の温度感が変わった。
「アプリを開けばすぐに見たいものにたどり着く目的視聴設計ではなく、視聴者にとってのセレンディピティ(直接探しているものとは別の価値を持ったコンテンツとの、幸運な出会いや予想外の発見)を仕掛けちゃった。抗いすぎました。抗わねば商売にならないけれど、抗いすぎた……」
SNSなど、世間で話題になっているものに即アクセスしにやってきたユーザーがアプリ内で迷ってしまい、見たいものに辿りつかない。しかもシステム面でも、24時間の安定的かつ柔軟な運用に対応できていなかった。SNSで突然話題になったものを目指してTVerへ来てくれる、そのせっかくのアクセスを吸収できない。
「メディアとして止められないサービスなのに、意識が希薄でした。マネジメントとして徹底できなかった。サービスは動き始めているので、直せるところから直していくしかないですし、システムで失ったものはコンテンツやマーケティングで取り戻すしかない」
そんな苦境を救ってくれたのが、2022年のドラマ『silent』(フジテレビ系)人気だった。1~3話をTVerに常設、全話配信を行った、初めてのドラマだった。TVerなら今人気のドラマを全部見られるという図式、視聴者からの信頼が成立した瞬間だ。
「“セレンディピティ”は、精緻に作られたものじゃないとユーザーにとっては迷惑でしかないという学びがありました。その時の経験は今も、ユーザーへのレコメンド機能などで生きています。アクション数を削ぎ落として、直感的な、目をつぶっていてもわかるようなインターフェイスで、一番手に取りやすいところにコンテンツを並べる」
ユーザーに日常使いしてもらいたいアプリならなおさら、スマートを極めた戦略的な設計でありつつ、そのスマートさをこれみよがしにしない親しみやすさも求められる。
「僕らが提供するテレビコンテンツは、ある意味、ミッキーマウスのような存在になるべきだと思っています。どこにあってもいい、そしてどこにでもある。あるいはコカコーラも同様で、いつどこで誰とどう飲むか、体験によってその価値が変わるけれど、本質の手に取りやすさは変わらないですよね」
ユーザーの要求に洗礼を受け、洗練を重ねたTVerアプリは、現在8,500万ダウンロード(2025年4月時点)、実に日本国民の3分の2以上の懐へと届けられた。
TVer成功の秘訣「みんなが見ているものを、今自分も見られること」

「この個人最適化アルゴリズムの現代においてもなお、人には“みんな”が見ているものを見たいという欲望がある」。TVerが国民的アプリとなり得た背景を、蜷川氏はそう説明する。
「日本人は共感モチベーション、みんなと一緒に動いている。だからみんなが何を見ているか、はすごく大切で。テレビの生業として、バラエティやドラマは基本的に多くの人に見てもらって価値があるという考えでできていて、老若男女誰が見ても楽しめるコンテンツの質感や細かいハウツーはたくさん蓄積されています。TVerには、日本で今流行りのテレビ番組が各ジャンルで上から50位までランキング形式でラインナップされている。だから『これTVerに行けば見られるよね』とアクセスしてもらって、ユーザー個人の好みで番組を保存し、好きなタイミングで見てもらう、ハードディスクレコーダーの利便性の高いものを作れたと思っているんですよね」
かつて、私たちは新聞に掲載されているテレビ番組表をチェックして見たい番組を決めたものだ。「でも番組表って、世の中の象徴的なライフスタイルではあるかもしれないけれど、生活が多様化する中、いまやそこにハマれるって相当“伝統的”だと思うんです。例えば夜中に働いていて、『めざましテレビ』(フジテレビ系)を見てから寝る人もいる。そう思うと、24時間365日を勝手にテレビ局の思想だけでラインナップしたり、新聞の朝夕刊を組んだりすること自体が、もう古いのかもしれない」
ゴールデンタイムと呼ばれるような放送時間帯の捉え方もしかり。「ゴールデンは家族で見るものということになってくると、固定観念に最適化したコンテンツばかりになる。たとえば、東京の地上波はNHKと民放キー局で7チャンネルありますが、7ジャンルの番組が用意されているかというとそうじゃない。『その時間にテレビの前でゆったりされている方』の像がパターン化されていて、ふたつかひとつくらいになってしまっていないか」
地上波だけではない。YouTubeやTikTok、Instagramなど、ショートやリールと呼ばれる短尺の映像を個人最適化して情報を降らせるメディアが引き起こすフィルターバブルは、ユーザーにとっても制作者にとっても危機的である、と蜷川氏は考える。アルゴリズムに引きずられ“たくさん見られるものが正義”のコンテンツ作りは、情報のバリエーションを貧しくしてしまうからだ。
「コンテンツの作り方が、オンデマンドに寄っていってしまう。でも、報道機関でもあるテレビは、有事の際や災害時におけるリアルタイムの情報提供など、視聴者が見たいものを提供すると同時に、テレビ側が見せたいものや見せなきゃいけないものを提供しなければならない。その両面から考える必要があります」
TVerのコアコンピタンスは「新鮮で健全なサービス」

日本では、コロナ禍をきっかけに海外発のサブスク配信サービスが力を伸ばし、完全無料のTVerとは並列の“競合”というイメージがある。しかしテレビや映画に限らずゲームなども含め、視聴者のいわゆる可処分時間の奪い合いは依然として熾烈で、コロナ期をピークとして各社が加入者数を減らし、有料課金モデルも苦戦しているのが現状だ。
たとえばAmazonプライムは、サブスクでのスタートでありながら最近になって広告モデルへと移行した。番組の途中で広告が挟まれるのはTVer同様の既視感がある。
「Amazonプライムは独自コンテンツもたくさんお持ちの上にスポーツイベントなど強いものもお持ちですし、世界一のテック企業だから、競合として見れば脅威です。ただ、僕らTVerは公共性や即時性がコアコンピタンスで、新鮮で旬なコンテンツ・情報が日々アップデートされていく。Amazonさんに今あるコンテンツとは少し違うものではないかなとも思います。それでも、TVerはスマホに加えてコネクテッドTVでの視聴が増えているので、Amazonさんのように健全なコンテンツを提供されているところと、競争しながら一緒に大きくなっていくフェーズにある」
蜷川氏は、TVerのコアコンピタンスを語るにあたり「新鮮」「健全」という言葉を強調した。「SNSプラットフォームを見ていて感じるのは、違法コンテンツに広告がついていることへの違和感。そのレベニューはプラットフォームと投稿者に還元されてしまい、コンテンツ自体の制作者に戻ってこないんです。僕たちはそことは一線を画した健全な広告ビジネススキームを目指していて、広告主さんからも一番信頼されるメディアでありたい」
そうして得たレベニューをテレビ局へコンテンツ制作の原資として可能な限り戻し、上質なコンテンツを作り続ける。するとどうだろう、全国紙のテレビ番組表には載らないような地方局の、新人ディレクターたちがチャレンジ精神を振り絞って作ったような深夜番組が、今TVerの視聴ランキングでキー局の看板番組の間に食い込んだりする。
「ローカル局にも、TVerに出せば全国区で勝負できる、たくさんの人が見てくれる、と可能性を感じてもらえている。それを聞くと僕らもうれしいです。地方局が全国で戦えるプラットフォームであることは僕らの価値でもある。放送局を信じて、一緒にビジネススキームを考えていける相手であり続けたいですね」
「夏休みの宿題が終わった、そんな気分です」……TVer時代を振り返って

TVer立ち上げ以来10年。テレビをデジタルにトランスフォームすることへ全力を注ぎ続けた。そんな蜷川氏の仕事論とは。
「広げるだけ広げるのが仕事だったので、広告やメディアサービスなど、一番壁があって大きくなりそうなものを選んでやり続けました。仕事って、きちんと頑張れば成長が見えることを全員がやるべきだなと感じているんです。帳尻を合わせるばかりで赤字のリスクが見えたらそこで仕事が終わってしまうような不健全な形でなく、継続的にコンテンツにエンゲージしていくような」
今、テレビは内外から突き上げられ、変革を迫られている業界だ。萎縮し、すくんでいる部分もないとは言えない。リスクのあることにはなかなか投資できない心理状態にはある。
「でもリスクなくしてリターンもない。テレ東に戻ると経営に近い仕事になるので、そういう分野を見極めていくのだろうなと思っています。多少リスクがあっても踏み出していく。少なくとも社会に貢献できる仕事をしたいな(笑)」
プロジェクトをそつなく終わらせることなど、誰でもできる。そんな手近な成功体験では社員も育たない。若い社員には早くから打席に立ってもらって、活躍してほしいという。
「それから、謙虚でありたい。放送業界がスキャンダルなどでキビしい目を向けられている現状だけれど、図体の大きな会社に一番求められることは謙虚さや誠実さです。調子に乗った時ってだるま落としを必ずくらう。『謝』という漢字は“ありがとう”と“ごめんなさい”の両方の意味を持っている字なので、僕は好きですね」
その言葉通り、蜷川氏はTVerでの自身の仕事を謙虚に振り返った。「数字だったら、もっと作れた人はいます。後悔もいっぱいありました。上司であった龍宝さん(正峰。現TBSテレビ代表取締役社長)も若生さん(伸子。取材時TVer代表取締役社長、現フジ・メディア・ホールディングスおよびフジテレビジョン常務取締役)も、物事を実現する力は僕よりずっと強く、助けていただきました。ただ僕の経験も多少なりとも役に立って、プラットフォームを作って世に出すことができた。期限通り出せなかったかもしれないけれど、やっと夏休みの宿題が終わった、そんな気分です」
そして清々しく笑った。「なんとなく肩の荷が降りましたね(笑)」。違法アップローダーたちの動機をくじき、時間と空間からテレビ視聴を自由にし、テレビ制作者へ健全に収益が戻るシステムを世に出し、整えた蜷川氏。彼の次の一手に、注目が集まる。